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スッキリすぎる? 日本的短文文化とSNS

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よく日本の言語文化の最大の特徴として
短歌、短文文化の歴史的蓄積があげられます。
「古池や、蛙飛び込む、水の音」という俳句が例になる。
どんな言語に置き換えても、この短文に込められた余韻のようなものは
なかなかに伝わりにくいと言われますね。
他言語に置き換えにくい日本語文化最大の特徴なんだと思います。
ものづくりでも日本人の基本的な得意分野は、小さく高性能という分野。
これでもか、という物量のものすごさを競うというよりも
軽妙でコンパクトということがらで、日本は花開くのではないか。

そんなふうに考えながら、最近のコミュニケーション手段、
SNS、FacebookやTwitter、Lineを見続けてきています。
見ていると、やはり一定の切り口的なものが現れてきているように思えます。
わたしもFacebookへのブログ投稿を毎日していますので、
その「タイトル」とリード文の「要約」に、一瞬の感性を集中させるときが、
毎日のように、やって来るワケです。
このときの一番の重要ポイントは、
いかに短く、直接的かっていう、「メッセージ性」の部分だと思っています。
けっして、時間を掛ければいいっていうものではない。
最近の言語感覚で言えば、「・・・すぎる」っていう言い方がある。
「美人すぎる市議」みたいな表現がよく使われた。
すぎる、という日本語表現を媒介にして、意外な取り合わせを結びつける。
そこで、そこはかとない(笑)、日本的すき間コミュニケーションが伝わる。
「そうそう、そこよ、いいトコ突くね」
っていう、面白いコミュニケーションが生まれていると思う。
たぶん日本人的感受性が、また大きく進化しつつある。
いま、毎日のように大量のこういう日本人感性による交流が、
SNS上で活発に交わされてきている。
そういうなかで、いままでの表現では表しきれなかったような、
モヤモヤしたものごとが、一瞬でスッキリするような
そんな表現、その萌芽が生み出されているのだと思うのです。
そういう意味では、中世の日本で流行ったと言われる
「連歌」というような文化が、
デジタルが生み出したコミュニケーション世界で、
超巨大な参加者のもと、毎日24時間、行われてきているのが現代なのでは。
そういうなかで、既存のメディアのステレオタイプ思考、表現は
急激に陳腐化してきているのが露わではないでしょうか。
「マスゴミ」っていう表現は、秀逸です。
ちょっと趣旨がズレるけれど(笑)、とくに朝日新聞などは、
いまや、「オオカミ少年メディア」化してきているのが現実だと思います。

多くの一般人の感受性がどんどん、この世界で増幅進化してきている。
メディア、コミュニケーションが大きな革命期に差し掛かっていますね。
こういう時代には、主体を掛けて、波のなかに飛び込むしかない。
そんな思いで、「瞬間呻吟」に立ち向かっています(笑)。・・・う〜む。

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